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感想 東京奇譚集 日々移動する腎臓の形をした石

村上春樹の『東京奇譚集』は5編の短編から成り立っている。『日々移動する腎臓の形をした石』はその中の1編である。日常生活の中の非日常性の備えた物語りである。
小説の主人公である淳平は小説家で、知り合い、そして恋愛関係になった女キリエに自分の作品の短編小説の内容を教えた。その短編小説のタイトルは『日々移動する腎臓の形をした石』なのである。現実と虚構の小説と交じり合い、劇中劇のような仕組みである。
「男が一生に出会う中で、本当に意味を持つ女は三人しかいない。それより多くもないし、少なくもない」と、淳平の父親は淳平が十六歳のとき、こんなことを言った。そして、父親のその言葉は呪いのように淳平の人生を束縛した。三人より多くはない、使い切れたらそれでおしまいなのだ。家を離れて東京に出た後、片思いをしている女に告白することもできず、彼女は自分のいちばんの親友と結婚してしまった。これであと残り2人。この二枚のカードを簡単に使い切りたくはない。それから淳平は女と出会うたびに、相手は自分にとって、本当に意味を持つ女性なのだろうか、自らにこう問いかける。そのため、淳平は女と深い絆を結ぶことが出来なかった。いつも都合のいい相手と淡々と付き合い、そして平穏に別れていく。このような淳平は、ある日、キリエという女に出会った。
キリエは奇妙な女である。彼女は淳平のそういうところを読み取った。彼女は、淳平と一緒になりたいという気持ちがないと打ち明けた。彼女はこの点において淳平と似ている。何らかの理由で相手と過度に親密になりたくない。淳平は彼女に自分の執筆中の短編小説の内容を語るが、彼女は自分の職業を淳平に教えない。彼女は確かに何か他人とシェアできないものを持っている。そして淳平とキリエふたりで考えた構想がようやく短編小説にまとまり、淳平は彼女に電話をした、が、彼女はすでに姿を消えた。
いつも女性関係に余裕を持っている淳平は今度余裕を失った。彼女がそばにいなくなってから、自分はどれだけ彼女のことを大事に思っているのかに気づいた。淳平はいつも彼女からの連絡を待っている。しかしキリエはその期待に添えなかった。淳平の心は激しい痛みに包まれている。二人の間の天秤は傾けた。淳平は彼女のことを彼女が自分のことよりも大事に思っている。彼女は姿をすんなりと消し、ふたりの関係は破裂した。キリエにとって最も重要なのは高層建築物の上で体験した風のことである。キリエと風の間にほかの人間を入れる余地がないのだ。風こそは彼女の恋人なのだ。世間の万物はすべて意思を持っている。キリエの風も、短編小説のヒロインの腎臓石も。そして何よりも、人間自身は意思を持っていて、それに従って行動するのだ。キリエの存在は淳平の腎臓石なのかもしれない。ヒロインの女医は腎臓石に揺さぶりをかけられ、妻帯者の恋人と別れて新しい生活に向けた。いっぽう、淳平はキリエのことを思いつつ、悟った。キリエは自分の二人目の女である。カウントダウンに意味は無い。たとえ人数が本当に限られていても、残りの人数のその数字になんの意味もない。大事なのは誰かを愛し、その人を受容し、お互いに理解し合うことである。その意味で、淳平も女医も変化を成し遂げた。淳平を縛る父親の言葉の魔力が解け、女医の腎臓石が机の上から姿を消している。現実の話と小説の話が重なり、これで小説が終わる。